武石教授インタビュー

「京大生とイノベーション」

 

「今の学生を取り巻く経済環境とは?」

「日本企業は今後どうすべきか?」

「イノベーションを学ぶ意味は?」 など、

 

京都大学で教鞭をとる気鋭の経営学者・武石彰教授が

「イノベーション」を縦横無断に語りつくす!

 

(構成:橋本、撮影:藤澤)

現在、世界の経済がおかれた状況

 

 現在、経済、社会は大きな変化の時代にあります。大きな流れでいえば、共産主義が崩壊したことで資本主義が世界の主流になったはずなのに、今度は資本主義が壁にぶつかってしまっている。先進国には共通して、「民主主義と資本主義の関係を再構築しなければならない」との想いがある。また、グローバル市場では新興国が大きなプレゼンスを示しているけれども、彼らもまた、環境破壊や格差といった問題を抱えている。つまり、色々な面で、現在は半世紀に一度の変局にあるといっていい。日本が指摘されている財政・政治の問題は、実は世界的にも共通しているもののひとつであり、まさに僕たちは「大変な時代」にいるわけです。

 

日本経済の課題

 

 日本の産業は大雑把にいえば1980年代まで成長を遂げてきたけれど、1990年以降は大きな壁にぶち当たっています。ここで考えなければいけないのは、「イノベーションのあり方」です。日本の企業にとって、以前は、ヨーロッパやアメリカが作ったビジネスモデルを模倣し、そのモデルの中でいかに良いものを安く供給できるかが重要でした。ところがそれを繰り返しているうちに、今度は日本が先頭に来てしまった。技術的にも、生産方法的にも、今までのルールやシステムの中では日本がトップなのに、グローバル市場では安価な商品に勝てていない。安価で生産を行う能力は、韓国・中国の方が優れていますから。日本が今後、再び先頭に立つには、世界的なレベルで社会・市場構造を変えていかないといけない。「ルールやシステムに従う」行動規範から「ルールやシステムを作る」行動規範へのシフトが必要、ということです。そのためにどういった立ち位置をとり、戦略を選ぶかが重要になってきます。

イノベーションの役割

 

 それを助けるのがイノベーションの考え方です。例えば、Googleは世界を変えました。現在、Googleが情報のあり方を変えたことで、多くの主要なマスメディアが苦境に立たされている。ウォールストリートジャーナルでさえも厳しい状況に追いやられた。その要因は、Googleだけではないが、インターネットが情報の発信・共有のあり方を変えたことにある。単に社会が求める商品を出すことではなく、社会そのものを変えて、新しいルールやシステムを作ることが重要ということです。

 技術だけでは価値は決まらない。価値は社会が決めます。そして、新たな価値の生成には、企業・国が関わります。SONYがVTRを世の中に普及させたのは、ハリウッドとの関係を見直すということを含んでいた。NTTドコモのi-modeは情報通信市場において「新たなルール」を作ったが、これは国内でしか普及しなかった。i-modeが世界で勝負しなかったことで、今、日本の携帯電話メーカーは非常に高い技術を持っているのに「宝の持ちぐされ」状態に陥っています。世界レベルで社会を変えなかったから、付属する技術が世界で通用しなくなってしまい、そうこうしているうちにAppleやNokiaが世界シェアを取っていってしまった。社会を世界レベルで変革させることに、主体的に取り組むことが極めて必須な条件になっているんです。例えば、ゼミで教えるアーキテクチャ理論はそのための道具の一つになります。

 

日本企業にイノベーションは担えるのか?

 

 日本企業は苦労しています。技術革新と市場をつなぐ役割の人材が不足しているし、権限を与えないこともある。「文系は既に生まれた技術の中で仕事をすべきだ」、という議論も世の中にはあります。だけど、文系の社員が技術開発の現場に入っていって、役割を果たす可能性だってある。そういうポジションは日本企業にはなかなかないし、だからこそ日本企業は壁にぶつかっているといえます。技術者の中には社会との関わりよりも研究に興味がある人がいるし、自然科学の追及に人生を賭けている人もいる。だからこそ、文系の社員は組織の中で、あるいは組織を飛び出して主体的に動く必要があります。「俺はこれをやる」というものを見つけて、技術とのかかわりの中で市場に価値を問うことが必要です。

 

社会にとってのイノベーション

 

 イノベーションとは、社会にとって新しい価値を創造することです。企業としては、そうして創造した価値を、いかに市場で価値獲得するかが大事で、またそれにより「持続的競争優位」を作るかが課題です。イノベーションとはこの価値創造と価値獲得を革新を通じて行う、ということです。ただ、そうやって創造され、獲得される価値が必ずしも社会にとって良いことかはケースバイケースです。自分が今、誰の立場で議論をしているのか、また何のためにイノベーションを起こしているのかを常に意識して考察しなくてはいけない。自分が何を価値にして、何を大事にするかということが大事になります。

 

 あることをすれば必ずマイナスがある。企業・政府・個人にとっても同じで、世界の先進国はこの問題 ―物事にはメリットとデメリットがある― に直面しています。どんな場合にも通じる「100%の答」はない、ということです。だからこそ、色々な価値を対峙させ、見直し続けなければいけない。「いかに、より多くの人が、より幸せになるシステムを作るか」という質問への、現在における答の一つは、資本主義と民主主義ですが、これも完璧ではありません。悩み続けることが大事なゆえんです。イノベーションやそれを学ぶことは、そのツールの一つになります。

 

学生時代にすべきこと

 

 僕の好きな知識人、加藤周一は「大学生とは、最も自由で、かつ守られている時期である」と言った。僕が京大に来てつくづく思うことは、この大学はとにかく学生を守るということで、これは基本的にとても良いことです。高校までは、何を学ぶべきかを教師が示して、学生はそれをフォローすることが求められている。また、大学を出たあと、皆さんの多くは企業や役所に入るでしょうが、その途端、ある枠にはめられ、自由がなくなります。また、それを拒否してフリーターになったとしても、自由があっても守られてはいない。大学生だけが自由でいて、守られている。こうした時期は恐らく二度と訪れません。だからこそ、好きなことをすべきだと思う。何が正しいかには、絶対的に正しいものはありません。ひとによって何を大切にするかは異なるし、誰にも共通して絶対的なものはない、ということが僕の基本的なスタンス。だからこそ、それぞれの人が「何に価値を置くか」が大事になります。それは自由だし、大学はこのことを考える局面なのではないでしょうか。恐らく多くの人は、学生時代には自分にとっての「価値」を見つけられないでしょう。僕も学生時代にそれを見つけたとは言えない。でも、見つけられなくてもいいから、それを考えることが大事です。自分で考えなくてはいけない、ということはある人にとっては楽しいことだけど、ある人にとっては非常に辛いこと。見つからなければ仕方ないが、それを探すことが大切なんだと思います。

 

ゼミの位置づけ

 

 ゼミでは、「立ち講義スタイル」に比べ、さらに色々なことを自由に、主体的に考える場としてあればいい。どのゼミに入ればよいかは、ゼミに入らないということも含めて学生が選べばいいと思っているし、僕もそういう立場で学生に接するようにしています。ゼミのもう一つの特徴は、学生同士の「横」の相互作用です。アメリカでは学部にゼミがないところが多いが、日本にはある。その意味は、勉強をしながら横の作用を作るということだろうと思います。

 

文系の学部生がイノベーションを勉強する意味

 

 僕は、「文系こそが重要だ」と言いたい(笑)。新しい発見は、多くの場合、きっかけは自然科学の研究者から生まれます。でもそれは狭い意味での技術革新でしかなく、経済価値をもたらさなければイノベーションとはいえません。経済価値は、社会に対しての働きかけがないと生まれないからです。そのために、むしろ文系の学生が必要です。以前の日本企業であれば、良いものを作れば社会に受け入れられました。既にあるルールやシステムに合う「良いもの」を作ればよかった。だから、工場・生産方法・技術者が重要でした。技術者が新たなものを生み出せば、他の社員は「価値」を前提にその範囲で営業・販売を行えばよかった時代です。ところが今は、新たな社会、仕組みを作らなければものが売れなくなってきた。今までにない技術、ものを生み出しても、それを価値に転換するには創意工夫が必要です。イノベーションを社会に対して行わなければいけない時代には、文系の取り組みが必要になるんです。

 だからこそ、文系の学生が経済学部で、技術をどう扱い、イノベーションを作っていくかを学ぶことが今まで以上に重要になっていると思います。イノベーションは万能ではないし、必ずしも社会に良い影響を与えるとは限らない。イノベーションはプラスもあるし、マイナスもある。今あるものを綿々と守っていくというオプションもある。しかし、それでも、好むと好まざるとにかかわらず、誰かが、どこかでイノベーションをしかけ、社会は変わっていくでしょう。その意味でも、「イノベーションと社会の関係」を考えることは重要です。「将来イノベーションを社会にもたらす役割を果たしたい」「イノベーションが社会に与える影響やそのメカニズムを理解したい」と考える文系の学生にとっては、学部でそれを勉強することの意味は高まっているといえます。